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西荷明鄭時期

基隆は旧名を雞籠と言います。

明朝末年、日本の豊臣秀吉が基隆には硫黄が豊富にあると聞き、兵を出して台湾を併呑しようとしましたが、途中台風に遭って引き返しました。これが基隆の一連の戦禍が立て続けに起こる序幕となったのです。

1626年、スペインが遠征隊を派遣してルソンより出発し、社寮島、つまり今日の基隆の和平島に上陸しました。その後、島の西南端に「サン・サルバドル城」を築きました。1642年、オランダ人が北上して社寮島を攻略占領した後、「サン・サルバドル城」を「北オランダ」に改名しました。

1668年、鄭経が軍を派遣してオランダ人討伐を行いました。オランダ人は敗北しましたが、この地を去る前に、社寮島の洞窟内に字を刻んで記念として残しました。ここは後に「番字洞」と呼ばれました。

西荷明鄭時期の写真船隊
西荷明鄭時期の写真部落
西荷明鄭時期の写真山野
西荷明鄭時期の写真港口

清領時期

清朝中頃より、基隆は極めて急速な発展を遂げるようになりましたが、それは主としてその鉱産物と密接な関係がありました。

基隆河は、流域に砂金を産出するだけでなく、豊富な良質の炭鉱を温存していたのです。

1875年、清朝廷はそれまで用いてきた「雞籠」の名称を「基隆」と改めました。という「基地昌隆(繁栄の基地となる)」という吉祥寓意を取ったものです。

清領時期の写真山
清領時期の写真部落

日治時期

1895年、日本人が台湾を占領した一年目、基隆港では積極的に五期におよぶ築港工事が計画され進められました。この後、基隆市の経済貿易における地位は日増しに重要となっていきました。

1916年、基隆港の貿易額はすでに淡水を超え、さらに一度は高雄港までもを超えて、台湾で最も主要な商業港となりました。

1924年より1931年にかけて、基隆は「市」に昇格し、当時の台湾における第四の大都市となりました。

1941年、太平洋戦争が勃発し、基隆はその主要な物資上げ下ろし港および海軍基地としての地位から、対戦末期において攻撃の矢面に立ち、米軍爆撃の主要標的となり、港はほぼ廃墟と化しました。

日治時期の写真總統府
日治時期の写真學生

中華民国時期

1945年台湾光復後、基隆港は基隆市政府と港務局の協力の下、積極的に再建作業が展開されました。台湾北部は人口が多く、産業が発達したことから、経済の要所に位置する基隆港の運営業績は日増しに向上し、港の施設も日々完全なものとなっていきました。1984年になると、すでに世界第七位の貨物港に成長していました。

中華民国時期の写真光復後市區
中華民国時期の写真市區